HOME
問い合わせ アクセス FACEBOOK インスタグラム
見る・学ぶ
動く・遊ぶ
宿泊


時 間/9:00~17:00(入館受付は16:30まで)
入場料/一般500円、高校生250円、小・中学生200円、団体割引有り

昭和12年8月、美平は召集を受け、松山歩兵第二十二連隊に入隊する。この年、美平は充実した生活を送っており「画生活に積極性を持たすため、個展を開く・・」という熱意から、八幡浜での個展を準備していた。もう一方では、召集の2ヶ月前、東宇和郡内(現西予市)の女性「敏恵嬢」と婚約を交わしていた。

9月、戦地へ向けて出発となる。多くの人に見送られて、一人一人と頭を下げ握手をし、母の前になると突然手袋を外し、素手でしっかりと握手をした。しかし、最後にもう一人そうしたかったであろう婚約者の「敏恵嬢」の姿はなく、ついに見送りには現れなかった。

急な出征を知らせる電報を打ったのに・・・美平は後ろ髪を引かれる思いで汽車に乗り込んだ。後日わかった事だが、敏恵嬢は、美平を見送る日、高熱を出して寝込んでいたそうである。あるいは周囲が心配して知らせなかったのかもしれない。

9月27日、上海羅店鎮沈家橋において敵の銃弾に倒れる。享年27歳、翌10月には婚礼が控えていた。遺品と共に送られてきた戦地でのスケッチ9枚が美平の絶筆となった。

生前、美平と共に「青年美術家集団」に参加していた洲之内徹が、美平の遺作展に一文寄せている。「…遺作は300点以上あった。

ひたすら描き続け、描き捨てられていった作品の堆積の中から、上岡君の激しい気魂が今更のように迫ってきて、圧倒されるのであった・・・一人でいると、彼の喪われたことが、とり返しのつかぬこととして僕の胸にひしひしと来た。それが僕に不覚な涙を落とさせた。

上岡巳平はもう僕達のところへは帰って来ないのである。」

戦死を告げる記事が、10月9日付の海南新聞に報じられた。その中で母キクエは「出発の時から覚悟はしておりましたが、さすがに涙がほほを伝うのをどうすることもできません。・・秋には結婚式を挙げる運びにしておりましたが、今では挙げなんでよかったと思います。何にしても、これ以上の名誉はございません。」名誉という言葉が悲しくも虚しい。

翌13年2月23日、町葬が執り行われた。そして4月、悄然気味だった上岡家に朗報が入る。春陽会研究所時代の画友、高木勇次の奔走によって、「三等車」と「子守り」の2点がそれぞれ「遺作一」および「遺作二」として春陽会に入選。当時の東京日日新聞に「遺作に薫る誉れ、春陽会に2点も入選」の見出しで、三面トップ記事として報じられた。また、美術雑誌「アトリエ」では、「故上岡美平君の遺作二は、遺作というハンディキャップなしに、断然優秀なものである。・・・何故もっと早く認められ、優遇されなかったのであろうか」と評している。

戦後を経て、昭和から平成へと平和な時代に変わり、戦没という言葉が色褪せてきた。駆け足で生涯を閉じた美平の作品を、弟大衛氏は「兄は小田川と神南山をめぐる風景を愛し、ほめて描いた。同じように、この土地の人間味が好きで多くの人物も描いている。」そして、「これらの絵がきっかけに、一人でも二人でも、この地方を愛し、描いてくれる人が出ればいいなと思います。」もの静かに語った。美平の言葉を代弁するかのように・・・。

軍服姿の上岡美平

遺作二「子守り」 春陽会入選作

 

PDFの閲覧について

・ダウンロード用のPDFデータはファイルサイズの関係上画質が劣ります。

・PDFの閲覧には、Adobe Readerが必要です。Adobe Readerをインストールすることにより、PDFファイルの閲覧・印刷などが可能になります。

Adobe Readerはアドビシステムズ社より無償配布されています。